久しぶりに少し時間が出来たので読書の量を戻している時に、以前読んだ内村鑑三のRepresentative men of Japan 邦題「代表的日本人」を読んでいたところ、西郷隆盛の項目に出ていた言葉です。
西郷さんというと上野公園の銅像くらいしかイメージない人もいるかもしれないですが、あの明治の時代を築き上げた一巨星であります。彼の風格、人格、そして行動力なくして明治維新はなかったでしょう。
そして、あの時明治維新がなかったら日本は極東の小国どころかどこか欧米列強の植民地だったかもしれません。
(私個人的には、明治維新については賛否両論あるんですがあの時の世界情勢を考えればやむをえなかったでしょう)
そして植民地になってたら、日露戦争などもなかったでしょうから、今のように世界中の人が人種を問わずある程度対等になってなかった可能性もあるわけです。私たちのビジネスだって、植民地になってたら英語を強制されてたかもしれないので必要なかったわけです(笑)。
もちろん、歴史はそうはならなかったわけです。
と考えると、あの上野公園の銅像もありがたく感じるようになりますよね。
最後はその明治政府を打倒すべく西南の役を起こし、鹿児島の城山で「晋ドン、晋ドン、もうここらでよか」と皇居の方を伏して介錯されその生涯を終えました。
私は個人的には世界史・日本史で好きな人物、というと、その一人にこの西郷と同郷の親友である大久保利通が子供の頃から尊敬する人の一人でした。幼なじみの西郷を討伐し殺した冷酷な奴、ということで故郷鹿児島では最近まで銅像も立たなかったくらいです。ですが、寡黙で口下手、超がつく現実主義者でかつ、私利私欲が一切なく、政敵は真っ先に殺すなど冷酷ではあるけど、その冷酷さは国と民を思うがゆえ、というのが全ての責任を引き受ける人間としてはカッコイイななんて子供の時には思ったものです。
でも、そんな大久保も幼なじみの西郷が自刃したことを知った時には動揺して嗚咽したそうです。その姿が本当の姿であって実は冷酷なのではなく、あえて立場からそういう人格を演じてたのかもしれません。
そして、西郷さんはつい最近までどうしてあそこまでリスクを取って維新という成功を成した人があえて下野して反乱を起こして最後は死んだのか。合理的に損得勘定で考えると、勝ち目のない戦いでしたし恐らく自分が最後は死ぬことも分かってたでしょう。
ただ、西郷さんの今日の言葉を読むと気持ちは分かってきますね。
今風の言葉にすると、「人は自身に打ち勝つことで成功し、自身を愛することで失敗する」ということでしょうか。
この言葉には続きがあって、何故10のうち8分で成功を収めながら残りの2分で失敗する人が多いのだろうか。成功がもたらされると、自己愛が育ち、警戒が失せ、安楽への欲望がよみがえり、労が煩わしくなるからだ、と続きます。
恐らく、こういう言葉を言う西郷さんですから、維新を終えて新政府に参画した人間の一部は守りに入り、自分の立場を良くすることしか考えなくなる者が出てきた時、活を入れるという意味で負け戦を承知で立ち上がったのかもしれません。
この言葉は、時々紹介しているスティーブン・コヴィー博士の7つの習慣にも出ているインサイド・アウトの考え方とも似ていますよね。
周りの環境ではなく、変えるべきは自分自身だと。
そんな西郷さんに影響を与えたのは、薩摩藩の藩主だった島津斉彬(なりあきら)と言われています。
もともと、情に熱い西郷さんだったので名君と言われた斉彬に多くの献策をします。そして、藩内の汚職の告発をしました。
ところが、斉彬からは梨のつぶて。
ある日、西郷さんは斉彬に呼ばれ鶴丸城で面会した時に愚痴ったそうです。
「殿は、私がこれだけ多くの提案をし、藩内の汚職を告発するのに採り上げてくれない」と。
その時に、斉彬は「意見をいうだけじゃダメだ。仲間の悪口を言うだけでもダメだ。まず、変えたいなら自分が変わって自分が行動をしろ。」と言ったそうです。きっと斉彬はそんなことは百も承知だったのでしょう。彼が期待してたことは、インサイド・アウトであってああしたい、こうしたい、ということを西郷が言うだけじゃなくてまずは、自分自身を変えること。そして、自分が当事者としてすることまでを期待していたのでしょうね。
そして、それがうまく行き始めた時には慢心しないこと、というのがこの言葉のポイントかもしれません。