“It is better to be roughly right than precisely wrong.”
「厳密に間違うよりも、概ね正しいほうがいい」( John Maynard Keynes)
私はテレビはほとんど、というか全く見ないので相変わらず芸能界オンチで関ジャニを関サバの仲間かと間違えてセキジャニと読んでしまったり、Tokioは一人と思ってたりと、ほんと、自分でも苦笑することが多いのですが、東京MXでやっている哲学者の西部邁さんの 「西部邁ゼミナール ~戦後タブーをけっとばせ~」はネットでも後で公開してくれるのでたまに見ています。
その中で、ゲストに出ていた柴山桂太先生が言ってた言葉がこれ。
ケインズは世界史や経済学を学ぶと出てくる20世紀の経済学者。
日本では、90年台にケインズ経済学をマスコミがイデオロギー的に公共事業だと感情的批判をしたために、なんかとんでも経済学扱いされていた時期がありますが、結局、リーマン・ショック後に世界中で見直されていて、最近のアベノミクスなんかを見ていても、第一の矢とか第二の矢というところには彼の理論の影響が感じられますね(第三の矢はちょっと違いますが)。
さて、この場ではそんな細かな話をしたいんじゃなくて、この言葉の言ってることこそが私達人間の本質じゃないかなと思うわけです。
日本語に直訳すると、「厳密に間違うよりも、概ね正しいほうがいい」ということでしょう。
結構、ケインズ自身、皮肉を込めて言ってそうですけど。
人は弱い生き物だからこそ、思い込みというか結論ありきで動くことが多い気がします。
私自身、会社がスランプの時などは「・・・がおかしいに違いない」みたいな仮説を自分の頭のなかに作ってその結論を元にしばらく動いてしまうことがあります。
もちろん、それが結果オーライだといいんだけど、人間は間違う生き物。
先に結論ありきで突き進んだ時に、その結論となる先が間違っていることもあるわけですよね。
だからこそ、柔軟に考えて「真ん中くらいでいいじゃん」と思うことも時と場合によっては大事なわけです。
言葉的にはあまり肯定的に取られないけど、「中庸:ちゅうよう」ということのなのかもしれません。
前提としては、「人は間違えるもの」だから柔軟に考えようよ、ということでしょう。
決め付けから入るときに限って、実はそれは自分の自信の無さからくることってよくあります。
この番組でも、今日本でよく議論になってる社内公用語英語化、だったり、グローバル化、って
多くのビジネスマンや政治家がいいもののように言うけど、「ちょっと待てよ」、とか、「じゃ、英語が公用語化しちゃった国で日本より国力ある国ってどれくらいあるの?」なんて冷静な視点で疑ってみたりすると、答えは極端じゃなくて間のどっかじゃないの、ということになるわけです(私は個人的に英語の初等教育は読み書き重視の今の英語教育のほうが、今進んでいる会話重視より
益が多いと思っています)。
もちろん、ゴールなく前進することは目的地なく船に乗るようなもの。
会社でも事業計画や予算なく、前に進むことはそれも危険です。ただ、一方で環境が変わればゴールも変わることもあるので、その点は頭を柔らかく、ということでしょう。
“It is better to be roughly right than precisely wrong.” 「厳密に間違うよりも、概ね正しいほうがいい」( John Maynard Keynes)
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