「具現化すること」と「評論すること」の違い
これ、私がとっているメルマガの一つにあった言葉なんですが、
私自身、振り返るとこの言葉がなるほど、と思うことが多々あります。
以前、私がサラリーマン時代いた会社の社長さんと社内会議で
いろいろと意見を求められたことがありました。
もう、昔のことで覚えていないですが、昔の自分はお恥ずかしながら
少々、偉そうで上から目線のところがあり(でも、仕事は頑張ってたつもりですが)意見ということで
具申したのでしょう。
ただ、その具申した内容はひょっとすると正論かもしれないけど、
「じゃ、その課題に対して私自身がどうするの?」という視点が抜けていた。
いわば、意見は言うけど、その解決は誰か他人か会社がやること、という前提だったのかもしれません。
その時に言われたのが、
「大山さん、あなた評論家なの?評論家はいらないわよ。」
と言われたのが結構、自分の中では大きな発想の転換点でした。
多分、その社長さんだってそんなこと、分かってるけど、じゃ、それをどうしよう、
ということや、それに対して、私が何をするつもりなのかを聞きたかったのでしょう。創業社長さんの多くは、人生かけてますから24時間仕事のことばっか考えてます。ただ、その解決策については人それぞれ異なる強みがあるわけで、私が何ができるか、という視点で話して欲しかったのでしょう。
人は誰でも、「こうあるのがよい」という理想像を持っていると思います。
それを、完全じゃなくてもいいからまず何か制作物を作る人と、
形にしないけど、こうなってほしい、という願望だけ持っている人。
それが、「具現化する人」と「評論する人」の違いだと思います。
具現化するということは、完璧な完成形を造り出すなんて必要ない。
単純に「試作的にこんなの作ってみた」とか、完成形じゃないけどとりあえず、一部分だけでも
やってみたという程度でいいのです。
もちろん、それは、評論で語る最高のものに比べればしょぼい内容かもしれないし、
レベルも低いかもしれない。
ただ、完全じゃなくても自分で何か未完成でも形にしてみることで、
そこからとてつもない技術や情報量が生み出されます。
これも、そのメルマガにあったのだけど分かりやすい例だから
引用してみると、例えば、ラーメン好きな人が2人いたとします。
いろんなラーメン店を食べ歩き、「こういうラーメンが究極のラーメン」
という自分なりの最高のラーメン像を持っていると思います。
それを口で語るところで止まっちゃうと「評論する人」。
次に、「具現化する人」は、実際にそれを自分でも作ってみます。
自分なりの最高のイメージを、とりあえず、形にしてみたいと思うのです。
作るのがはじめてなら、色々見よう見まねで作ってみたり、
クックパッドのレシピを見て、だしを作り、煮込んで、麺をつくって・・・・
とりあえず、それらしいものを作ります。
もちろん、出来たものは、評論で言うところの最高のものからは、
全く及ばないものになるかもしれません。なにせはじめて作る究極(のつもり)のラーメンですから。
もし、ここで「評論する人」になっちゃうと、そこで、
「これはダメだよ。何がダメかというと…」
ということになってしまう。
逆に、「具現化する人」は、その失敗した時点ですでに、
情報量は「評論する人」より圧倒的に高くなっています。
「何がダメかというと…」という評論的情報は、過去の知識や経験の
ストックからしか出すことが出来ないけど、「具現化する人」は過去の知識や経験とは違う部分から
新たにいろんな知識や情報を体得しているからです。
「何がダメ」ではなく、
「何をまだ試していない」という情報なんですね。
評論することは、過去や現在を述べているに過ぎませんが、
具現化することは、過去や現在から未来を造り出しています。
自分の仕事において、
ついつい「評論する人」になっていませんか?
「具現化する人」になりましょう。
「具現化すること」と「評論すること」の違い
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