他律と自律 ~ 利己心を持った人間が、いかにしてよりよい人間関係を築きうるか
こんなことを考えたのは、実は実家で14年共にしたレオンが
昨日亡くなったことからいろいろ振り返ったからです。
私が大学を卒業しアメリカの大学院に留学したのが1998年。
その年の12月に一時帰国した時に、私は彼(レオン)とはじめて出会いました。
いわば、私の代わりに関西の家族の一員になってくれたのがレオンだったわけです。
その時は、芦屋の実家には祖父母、父母、そして弟。
また、父型の祖父母も神戸にいたので、私を外して8人(レオンも入れて)がいました。
それから14年。時が経過し、今は祖父母はどちらも亡くなり、そして、
レオンも昨日亡くなったので、関西に残ったのは父母と2名だけになりました。
人間が歳を取るってこういうことと切って離れない関係があります。
時には自分を甘やかして快楽にふけったり、あるいは、辛いことから
避けたり。そして、時にはそれを反省して頑張るけど続かなかったり・・・・。
そんなことを繰り返しながらも少しずつ、前進していくから世の中が発展するのでしょう。
こうした欲望・利己心むき出しの存在としての人間の経済活動と、一方で、
利己心だけに収まらず他人に対する思いやりの心(同感:sympathy)が組み合わさって
どのように経済が発展するかを記したのが、経済学の祖と言われるアダム・スミスの道徳感情論と
言われています。こういうことを考えると、経済って奥が深いもんです。
今日はそんな他律と自律について。
他律というのは、人間社会は原則「欲」や「利己心」があるから
悪事を犯してしまう。だから、それを法律やルールによって律するという考え方。
一方、自律はこうした「欲」や「利己心」を自分の内なる心の中で
制御する(律する)考え方。
人間の難しいのは、私たちは弱い生き物ですから、どれだけ立派な人でも
時には目の前の欲や利己心に目が行く事もあるし、そして、時にはこうした行為を反省もする。
だから、どっちが重要と言うよりは、自律と他律のバランスをどこにもっていくかなんだと思います。
もちろん、他律を前提とした社会はルールでがんじがらめになるから
活力がなくなるし、一方で人の自律だけを信じるとやはり、世の中にはいろいろな人間がいるから
その自律的な社会を悪用し、自分だけいい思いをしようとする人が出てきてしまう。
だから、両者のバランスをとるさじ加減が必要なわけです。
社会という広い器ではなく個人で考えてみましょう。
その時にも、異常に道徳観念の高い聖人のような人がもし存在するなら別ですが、
それはそれでつまらない社会になってしまう。生身の人間は人間はimperfect(不完全)でありfallible(間違いを犯しやすい)
ものであるからこそ、その間違いをカテに成長し社会が発展するわけです。
そんな時に、弱い自分を誰かがたまーに見てくれてると思うといいでしょう。
私は実際何度か、そんな体験をしていますが。
これが他律と自律の間にいてくれる存在としての、自分のご先祖様だったり
自分の信じている神様だったりなんじゃないかな、と最近思います。自分のやってることをこっそり見てくれてる
存在がいると思うと、欲望に対して弱い人間も他律的な法律によって律されるのではなく、間接的に自律することが出来ます。
いやはや、9月に実家に帰郷した時にはかなり元気だったので私も
今は香港にいる弟も昨晩は恥ずかしながら泣きまくってしまいました。が、今までは帰った時にしか
会わないレオンが近くで自分を見ていると思うと、ますます、頑張らないと、とプレッシャーとモチベーションが出てきました。
他律と自律 ~ 利己心を持った人間が、いかにしてよりよい人間関係を築きうるか
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