常識とは、十八歳までに身につけた偏見のコレクションである。
(アインシュタイン)
面白い言葉で4月最終日を飾るにちょうどいいかなと思いまして
紹介します。
大人になってからも成長し続ける人とそのままの人がいます。
その一番の差はなんだろう?
と時々思うことがありますが、それは、「考えるか否か」じゃないかなと
時々思います。
別に頭がいいかどうかでもなく、勇気があるかないかでもなく、
考えるか否かが一番、と思うのは後のことの多くはその後の努力でコントロールできますが、
考えるかどうかというのは入口の部分だからです。
そんな意味でアインシュタインが言った、常識とは18歳までに
身につけた偏見のコレクションというのは言い得て妙な言葉じゃないかなと
思います。
まだ本当に小さかった頃を思い出すと分かりますが、守ってもらわないと
生きていけない本当の子供の時って、思った以上に考えています。どうやったら大人に
守ってもらえるか(かわいがってもらえるか)を本能として、頭をフル回転させて考えるからでしょう。
ところが、ある程度物心がついてから多くの人間はこの「考える」
という動作を止めてしまいます。どうしてかというのは分かりませんが、やっぱり、
「考える」という行動はすごく精神力も体力も消耗する作業ですから、少しずつおとなになると
面倒くさくなってしまうのかもしれません。
ところが、大人になってからこの
「どうしたら・・・が出来るだろう」
「何故、ここがうまくいかないのだろう」
といった自分に対する懐疑の気持ちを持ちながら考えるという行為をしてるか
していないかで、その人の人間としての円熟味はすごく差がつくと最近つとに思います。
今、ぱっと目の前で見たり感じていることの多くをどう捉えるかというのは、
ずっと考え続けている人は、捉え方も変わってきますが、そうじゃない人は、恐らく
学校を卒業した時からあまり変わらないでしょう。
もちろん、時には考え続ける時間があったらまず一歩を踏み出す
向こう見ずさが大事なことも多々あります。私が何億も借金して会社作ったのは
今思うと、この非常識さがあったから出来たことで、偶然、こうやってみんなと仕事を出来るくらいになったのは
正直ラッキーだったと思います。ただ、その後、どうやったら会社が発展するか、良い人と巡り会えるか、マーケティングを改善したり、
新サービスを導入するか、というところには、考え続けるという行為がやっぱり必須だなと思います。
ちょっと頭でっかちの内容で月末締めくくってしまいますが、
この考える、という事がどんなことなのかも考えながら今日一日を仕事しましょう。
常識とは、十八歳までに身につけた偏見のコレクションである。 (アインシュタイン)
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