苦悩をつきぬけ、歓喜にいたれ
(by 竹鶴政孝 ニッカウヰスキー創業者)
ちょっと、硬い文章になっちゃったけど、きっかけは
不順でした。
昔、お酒と言えばウイスキー、というくらいにウイスキーに
はまった時期がありました。
その時は、やっぱり、ウイスキーなら、シングルモルト。
となれば、スコットランドだよね。
とウンチクを持っていたものです。
昨日、仕事が終わってひょんなことから山梨県でつくられている、
スパークリングワインを勢いで、飲んでみました。
それが、とても美味しかったのです。海外のブドウにはない渋み、
そして、
それと重ね合わせて、昨日は、スコットランドから来たJudithの
トレーニングをしていたからか、ふと、コンビニでニッカウヰスキーを
(一番安いものですが)買ってみました。
それで、家で仕事をしながらニッカウヰスキーの社史を見ていて、
創業者の竹鶴さんのこの言葉に出会いました。
いまでこそ、ジャパニーズウイスキーといえば、結構、世界でも
評価が高く、西のサントリー、東のニッカとして知られているみたいです。
その歴史を作ったのが竹鶴さんです。
結構、破天荒な人で「日本にも本格的なウイスキーの時代が来る!」と
考えて、単身、大正時代にスコットランドに乗り込んで、グラスゴーの大学に
(当然、当時の人なので英語も初めは話せなく)編入。なかなか、実地での製造に
かかわることが出来ないので、醸造所に飛び込みで、頼みこんで製造現場に入らせてもらう。
そして、その先祖代々続く醸造所の娘さんだったリタさんを夫人として日本に
帰って、サントリーのウイスキー事業の立ち上げをする(それが、今では有名な
山崎醸造所(ウイスキーのヤマザキの場所))。が、スコットランド仕込みの
本当のウイスキーを作りたいがために退社。スコットランドと気候が似ている
北海道の余市でニッカウヰスキーを創業する。
といった、当時の日本人には珍しいタイプの人です。
85歳で亡くなるまで、毎日ウイスキーをボトル一本飲んでいたそうです。
ただ、こだわりも強かっただけに、なかなか事業は立ち上がらなく、
東京や大阪では知名度はサントリーに負けて、厳しい時期がずっと続いたみたいです。
そんなニッカウヰスキーを有名にしたのは、戦後、日本とイギリスが
国交を回復した時に、ヒューム首相が来日した時に、
“貴国の一人の青年がかつて、単身、我が国に来て万年筆とノートでウイスキー製造技術の秘密を全部盗んでいった”
と発言して、そこから一気に有名になったとのことです
(盗んで、という言葉は皮肉たっぷりのイギリスユーモアで、最大の褒め言葉だったみたいです)。
そんな、苦労人の竹鶴さんの今日の言葉。
仕事って楽をしちゃうといくらでも楽が出来ます。
が、その仕事の中から何かを見つけ出して、自分を高めよう、と思って
している人にはいくらでも試練がやってきます。というよりは、神様が試練を
与えてくれるのかもしれません。楽をしてると、自分を高めるための試練が
来てくれている事にさえ、気づかないものです。
そこを、考えて考えて乗り越えた人、そして、逆に、現状を
好としてそのままの人。その差は、すごく大きなものになるでしょう。
それが、1か月、10か月と積み上がって3年、4年経ったときの差はとてつもなく、
大きなものになるでしょう。
当然、それは個人にも企業にも当てはまります。
さすがに私達もニッカほどの名前にはならなくても、本当に
英語に困っている女性のお手伝いといえば、b、と都内に住んでいる人には
思われるくらいの存在にはなりたいですね。